隠れた名作!

3DO

1994年(平成6年)3月20日に、松下電器産業(当時)から発売。
「3DO」の「3D」は3次元(3 Dimension)、そしてオーディオ(Audio)やビデオ(Video)のように一般的なものになることを願って、両者に共通する最後の一文字「O」を付けた、とされています。
日本では松下電器産業が同規格の“3DO REAL”を、三洋電機が“3DO TRY”を発売(こちらは1994年10月1日)した。「セガサターン」「プレイステーション」「Nintendo64」などと同一世代となり、とくに3DO REALはその先駆けとなって発売された次世代機ということでコアなゲームファンから注目されていました。

 

 

特徴

「The 3DO Company(3DO社)」は、エレクトロニック・アーツの創業者であるトリップ・ホーキンスが1991年に設立した企業32bitマルチメディア端末の統一規格「3DO」を他メーカーにライセンス供与して、規格に基づいたハード及びソフトが売れる度にロイヤリティを徴収するビジネスモデルを採用・契約していたそうです。3DO端末向けゲームソフトの開発・販売も行なっていました。
3DCG及びフルカラー動画に対応した初のゲーム機で、世界最大級のゲームメーカーであるエレクトロニック・アーツがセカンドパーティーだったこともあり、当初は北米のゲーマーからは期待を寄せられていたハードでした。
64bit規格「M2」も開発していたのですが、開発途中で業績がみるみる悪化したため、1995年に3DO・M2の両規格の権利を松下電器産業(現:Panasonic)に売却したという経緯があります。 2003年5月に連邦倒産法第11章を申請し倒産しました。
定価は当初54800円と高価でしたが、後に改良機で値下げも実現した「3DO REAL II」が、同年である1994年11月11日に松下電器産業から44800円で発売されています。
メガCDやPCエンジンのスーパーCDロムなどの光ディスク対応のゲーム機は既にありましたけど、本格的にゲームソフトのメディアが従来のロムカセットから光ディスクに変更されて容量が増加!これまでとは一線を画するハイクオリティーなゲームが注目されました。
海外のゲームがほとんどだったので、発売直後はかなりコアなファン向けという印象が強いハードでしたが、『スーパーストリートファイターII X』の登場で比較的ライトなゲームファンからも注目を浴びることに。

『スパIIX』は後にドリームキャストで発売されるまで、長く3DOの独占タイトルだったため、同ハードのキラーソフトでした。

他にも、ゲームデザイナーの飯野賢治氏が手掛けたアドベンチャーゲーム『Dの食卓』や小島秀夫監督の『ポリスノーツ』が、初めて家庭用ゲーム機に移植されたのも3DOです。

 

沿革

次世代機の先駆けで、その性能は当時のライバル機を遥かに上回り、タイミング的にも絶好の時期だったのにもかかわらず、あろうことかローンチタイトルのラインナップはムービーゲータイプのゲームが大半だったのでした。
日本でも、初期のゲームソフトがほとんど海外からの輸入物(洋ゲー)だったために、洋ゲーメインの取っ付きにくいマシンというイメージが定着してしまって、更に1994年末にセガサターン・プレイステーションといったより安価で高性能なゲーム機が次々登場したために終始苦戦を強いられることに。

当時の日本人ゲーマーにとって洋ゲーは、無駄に「キャラの絵柄が濃く・不親切なシステム・高難易度」といったマイナスイメージが偏見込みで根強かったのでした。

ただ、1994年11月にカプコンからそれまで家庭用ゲームソフトとしては発売されていなかった同社のアーケード用ヒットタイトル「スーパーストリートファイターIIX」がリリースされたのを機に国内湯ユーザーを意識したラインナップへと転換を図り、同時に廉価版「3DO REAL II」を投入するなど盛んに挽回しようと試みますが、一時的に普及率も上向きになったものの、やはり有力なゲームタイトルを継続的に送り出すことができずに再び失速、国産機の世界展開開始に比例して3DO社の業績が悪化し始める事態に。
同年末に3DO社から松下電器が事業を受け継いで展開するのですが、言い出しっぺのが3DO社が撤退したということでサードパーティーからは敬遠されてしまい、ソフトの減少からハードの普及不振という流れは業界の習いです。
こうなってくると、既にキラータイトルを保有し盤石のユーザー層を積み上げているセガサターンとプレイステーションの勢いに追いつくことができず、更に1996年6月には任天堂の「NINTENDO64」が満を持して発売されたことでユーザーの興味はほぼ完全にこれらの3機種に絞られてしまい、3DOに勝ち目はありませんでした。
結果、同年末頃までには淘汰され店頭から消えていくことに。

 

戦略ミスが命取りに

3DO社の方針もあって「ゲームに留まらない情報家電」という位置付けで販売されていたのですが、「ゲームに留まらない」という新しい方向性が災いして、殆どのゲーム雑誌からは他のゲーム機と同等に取り上げられず、別枠で便宜的に紹介されるだけだったために一般層への認知度は一向に広がらなかったみたいです。

ゲーム雑誌でも、性能の劣る任天堂・セガ・NECの主力機ばかりがフォーカスされていたのでした。

ゲーム機ではなく関税が高い「情報家電」として認定されたので、価格がさらに高くなったということもあり、「安価なゲーム機」ではなく「高価格なマルチメディア機」というコンセプトは、普及の大きな妨げとなったのです・・・。
それに加え、日本発売当初の3DOはハード・ソフト共にゲーマーへのアピールが非常に弱く、本機が本来持っていた筈の「ゲームに留まらない情報家電」というマシンへの展開がなされず、「単に高いゲーム機」・「洋ゲー主流のマシン」というイメージで一般層に普及しないという悪循環へ陥ったのでした。
もし、発売時期の利を活かしてローンチタイトルを充実させていたら・・・もっと早くゲーム機としての3DOの展開に本腰を入れ始めて3DOの上位互換を持った後継機「Panasonic M2」の開発がなされていたら・・・ひょっとすると今のゲーム業界の流れも変わっていたのかもしれません・・・。

ピピンアットマーク

日本では1996年3月28日に、海外では『pippin@WORLD』という名称で1996年9月1日に発売されています。
PiPPiN aTMaRK / PiPPiN@ / ピピン@アットマーク とも表記。
バンダイが提案し、アップルコンピュータが開発と提供を行うマルチメディア・プラットフォームとして名付けられた規格「PiPPIN(ピピン)」でした。

当時のアップルのコンピューターに名付けられていたりんごの種類である「Macintosh」より一回り小さく、青いりんごの種類から名付けられたそうです。

完全な状態のMacintoshではないものの、実質的にはMacOSがライセンスされた初めてのマシンです。
Macintoshと下位互換性があり、Pippin専用タイトルのほか、一部のMac向けCD-ROMタイトルが動作します。
中身のピピン自体はApple社が開発して、他社(日本ではバンダイ)にライセンス提供する3DOのような形式をとっていました。

 

 

特徴

スタンダードモデルの「ピピン@アットマークセット」とインターネット接続対応の「特別ネットワークセット」があり、特別ネットワークセットには外付けモデムが付属していました。
コントローラーは細長い三日月型をしており、トラックボールを内蔵しているのが特徴的。コントローラーはMacでも使用可能で、ペンタブレット内蔵のキーボード(オプション)とともにMacユーザーに珍重されたという。
このほか、メモリーカードやMOドライブ、フロッピーディスクドライブなど専用の周辺機器が豊富に用意され、Macintosh用プリンタも接続可能。
ハードディスクがない(フラッシュメモリで代用している)ためインストールが必要なゲームは起動できないのですが、Mac用のソフトを起動することも出来るし、ピピン用のソフトをMacで起動することも可能。
インターネット接続ができる家庭用ゲーム機という位置付けで売り出されたが、厳密にはパソコンと下位互換性があるマルチメディア機で、当時Macが主力にしていたPCと同程度の性能を持ち、同世代のゲーム機と比べて非常に高い性能を誇っていました。

CPU:PowerPC603(66MHz動作)
RAM:6MB(13MBまで拡張できる)
VRAM:RAMのうち1MBを画面表示用に振り分ける
OS:PipinOS(Macintoshとの互換性あり)
ストレージ:4倍速CD-ROM、専用メモリーカード(フラッシュメモリ)
オンラインサービス:アットマークチャネル(1999年4月30日サービス終了)

 

概要

当時のCMで「インターネットはテレビで見よう」と謳っていて、ゲーム機というより安価なMac互換機というイメージでした。
マイナーな印象のMac、援護射撃になるかと思われていたのですが、当時はWindows95の発売で一般家庭にPCが普及し始めた頃で、Windowsが急激にシェアを拡大し、Macのシェアは芳しくありませんでした。それゆえにMac向けソフト自体の供給量が少なく、さらにMacのOSが新しくなればピピンで動くソフトは逆にどんどん無くなっていくので、挽回のスケルトンタイプのかわいいMacが登場する頃にはピピンはソフト不足に喘ぐことに。
いわゆる次世代機戦争真っ只中、大いに湧いたゲーム業界でしたが、価格が高くてゲーム機としてもMacとしても中途半端だったピピンは存在感を示すことが出来ず、1998年2月27日にバンダイが撤退を正式に発表し、2年弱でその役割を終えました。
ピピンの不振などで1997年1月にはセガとバンダイの合併話も騒がれたことも(後に白紙化)。
PC向けの環境ソフトや知育ソフト、デジタル絵本などがピピン向けにも発売されているのでが、専用のゲームソフトは全体から見るとだいたい半分以下という中途半端さで、もう少しどうにかできなかったのかと感じられることも・・・。また他機種でも発売されているソフトが多く、性能を活かしたピピンならではというゲームが無いのでなるべくしてなった結果とも。。

GUNDAM 0079 THE WAR FOR EARTH
ウルトラマンクイズ王
アンパンマン
たまごっち
SDガンダム外伝
AI将棋
EGWORD PURE for Pippin(ワープロソフト)

 

 

世界一売れなかったゲーム機

当時の他機種と比べても性能の割に高価格で、キラーソフトの欠如はもちろん、コンセプトの不明瞭さから売り上げは非常に悪かったと言われています。
累計損失は約260億円という残念な結果に。
全世界で4万2000台しか売れなかったという、ピピンをゲーム機として「世界一売れなかったゲーム機」という不名誉な称号で呼ばれてしまうことに。
家庭用ゲーム機の長い歴史の中に埋もれてしまい、人びとの記憶から失われつつある不遇のゲーム機でしたが、あらかじめモデムが同梱されていて、すぐにでもネットワークが楽しめるというのがウリだったため、その構想は、1998年11月27日にセガから発売された『ドリームキャスト』でもありましたが、それよりも1年半以上早かったということなので、時代を先取していたゲーム機ではありました。
当時はパソコンユーザーですらネットを使っていたのは一部に限られていた時代であり、一般の人々にはなじみがなかったのが悔やまれます。

本機の2年後に発売されたドリームキャストですら、ネット接続機能を持て余していたので。

スーパーカセットビジョン

1984年7月17日にエポック社から発売された家庭用ゲーム機。
同社発売の『カセットビジョン』の直接的な後継機。

次世代機ではあるのですが、カセットビジョンとの互換性は無く、カセットビジョンのカートリッジや周辺機器は一切使用できません。

当時独り勝ちしていたファミコンの牙城を崩すべく、それ以前までトップシェアを誇っていたエポック社が、起死回生を狙って投入されました。価格は14800円。
対応ソフトは全30本
85年には女の子向けのセットとして、キャリングケース入りの「レディスセット」というピンク色の本体も発売されていました。
こちらは占いソフト「ミルキープリンセス」が同梱していて、価格は19300円でした。
ドラえもん」や「ドラゴンボール」などの人気のキャラゲーのほか、後期にはナムコも参入し、「ドラゴンスレイヤー」や「スカイキッド」、「マッピー」などの人気作が移植されました。
またファミコンに先駆けて、セーブできたバッテリーバックアップ機能を搭載した作品も発売されていたのです。

カセットに単三電池2本を入れるという非常に男らしい仕様で、ユーザーによる電池交換も可能であったのですが・・・データを消さないためには「本体に刺して電源を入れた状態で交換する」という無茶ぶり。

 

 

特徴

ハードウェア開発はカセットビジョンと同じくNECによるもの。
コントローラはカセットビジョンとは異なり本体からケーブルでのびる。
またカセットビジョンがカートリッジ側にCPUを搭載していたのに対して本機種では本体内部に搭載されている。

 

スプライト(キャラクター)表示数

単色であれば128個同時に表示することができる(数に限定すればファミコンはおろかPCエンジンやメガドライブといった次世代機をもしのぐ)。
マルチカラースプライトでも128枚とファミコン以上の表示能力。

それ以外の部分は当時としてもかなり貧弱なスペックなため、とくに背景描画が貧弱で、デカい範囲を四角くベタ塗りすることくらいしかできないため、背景やテキスト(背景描画はテキストの表示を流用)の描画を補完するために無駄なスプライトが消費されることが多かったのでした。

 

RGB端子搭載

コンポジットビデオ端子をもつテレビがほとんどなかった背景もあり、
RF出力端子とRGB端子のみ搭載。しかしRGB出力であればファミコンよりも鮮明な発色が得られたのです。

 

本体にポーズボタンとテンキー搭載

テンキーは麻雀ゲームなどで使われました。

 

 

概要

1981年にエポック社によって日本市場へ投入されたカセットビジョンは発売以来、順調なセールスを遂げて40万台(資料によっては45万台もの売上げを記録し、当時の日本の家庭用ゲーム機シェアの7割を獲得する成功を収めていたのですが、1983年になると日本市場では任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)やセガのSG-1000など相次いで他社より次の世代のゲーム機が登場したため、カセットビジョンと他社機との性能差が大きく開く事となる事態に。
アニメキャラクターを起用したゲームを(ファミコンやセガマークVよりも早い段階で)リリースしたり、他所からライセンスを借りたソフトをリリースしたりしたこともあって、月1本ペースで新作ソフトを発表されていました。
しかし、いわゆるサードパーティーを積極的に受け入れたファミコンや、ゲーセン向けゲームを取り入れることが出来たマークVの前には歯が立たなかったのでした。
1986年のクリスマス商戦を最後に製造・販売が打ち切られ、エポック社は家庭用ゲーム機から撤退したのです。
当時の一部ゲーム雑誌等では「3大ハードメーカー」と称され、セガのSG-1000シリーズと並び、家庭用ゲーム機普及初期の時代を築いた、代表的な機種の1つではありました。
その後1989年12月15日発売の『ファミコン野球盤』でファミリーコンピュータのサードパーティーとして参入して、ゲームソフトメーカーとなりました。
一方で本機のハードウエアを担当していたNECグループは、1987年に本機と入れ替わる形でNEC-HEからPCエンジンをハドソンと共同開発で発売し、家庭用テレビゲーム市場に参入を果たしています。

ラストエトワール