SEGA

SEGA

名作と思うゲームを機種やジャンルを問わず紹介していきます
スマホ版、牧場物語?!

メガドライブ

 

 

 

 

 

 

1988年に発売されたセガの家庭用ゲーム機。
家庭用ゲーム機として他社に先駆けて16ビットCPUを搭載。一時期は北米シェアでナンバー1になるなど、セガハード史上最も普及した名機。
16ビット機として任天堂のスーパーファミコンより2年先行して発売されました。
アーケード基板やMC68000を家庭用ゲーム機として初めて搭載し、プロセッサ性能としてはスーパーファミコンを上回る。
メガCDと合体させることによりCD-ROMのソフトも遊ぶことが可能で、北米ではジェネシスという名前で発売され、海外市場では欧米人好みのアクション、シューティング、レーシング、スポーツゲーム等が豊富だったこともありSNES(海外版スーパーファミコン)を上回るほどの人気を誇りました。
セガがアーケードゲームの大手だったこともあり、競合する他社が参入に乗り気じゃなかったとも言われたのですが、RPGタイトルの不足でスーパーファミコンやPCエンジンに苦戦を強いられることに。
シューティングや横スクロールアクションゲームのラインナップがユーザに人気があり、セガで最も売れたハード。

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

メガドライブパーフェクトカタログ (G-MOOK) [ 前田尋之 ]
価格:2546円(税込、送料無料) (2020/1/11時点)



メガドライブmini

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

メガドライブミニW
価格:9878円(税込、送料無料) (2019/10/13時点)


SEGA SATURN(セガサターン)

 

 

 

 

 

 

 

セガ・エンタープライゼスから発売された、セガの6番目の家庭用ハードということで、太陽系第六惑星の土星(サターン)からつけられています。
水・金・地・火・木・土の順で、火星ならマーズで、天王星ならウラノスという意味です。
前期型と後期型の2種類があり、俗に前期型は黒サターン・後期型は白サターンと呼ばれてます。

 

 

32ビット RISC CPU「SH2」を2個搭載し、ポリゴンによる3DCGゲームや、大きく表現の向上した2Dゲームなどが登場。
「32+32=64bit級」というキャッチフレーズが使われていました。(マーケティング上のコピーに過ぎない)
映像やオーディオ再生機能といったマルチメディア機能も強化され、日本ビクターからは「Vサターン」、日立からは「ハイサターン」の兄弟機が登場しました。
セガサターンではセガ独自のレーティングが用意されていて、「全年齢」「X指定」「18歳以上推奨」「MA-18」と存在していましたが、全年齢を除いたレーティングは現在のCEROレーティングとはやや異なります。

 

 

セガサターンは本体にセーブデータ記録領域があるのですが、記録できる容量にも限りがあり、本体カートリッジスロットに刺す「パワーメモリ」で容量を増やす事ができたのですが、カートリッジ端子の接触不良でパワーメモリに記録したセーブデータが接触不良で飛んだりする事が結構な確率でありました。本体の記録はバッテリーバックアップである為、コイン電池をセットしないといけないのですが、交換は可能ですがバッテリー切れを起こすとその時点で消えてしまうので注意が必要です。

 

 

メガドライブの後継機で、当時の3Dのポリゴン機能がウリだった次世代ゲーム機と呼ばれた中でも最高の2Dスペックを持つハードとして開発されました。「PlayStation」や「NINTENDO64」とシェアを争いました。
日本国内ではプレイステーションよりも先に、実売100万台を達成しています。
任天堂やSONYに先駆けての販売だったので、セガのハードとしての滑り出しは、かつてない売れ行きを予感させました。
「サクラ大戦」や「パンツァードラグーン」「バーチャファイター」などの良作やCPU性能と2Dスプライトグラフィックに力を入れた設計になっていたので、その強みを生
かして、格闘ゲーム、シューティングゲームといったゲームが多くリリースされています。
スプライト性能は家庭用マシンにおいて最強スペックを誇っていて、追加メモリーを搭載することによってカプコンの対戦格闘ゲームを完全再現することが可能なほどでした。
ですが、任天堂ハードで開発していたサードパーティーが続々とSONYのプレイステーションに参入し、コナミの「ときめきメモリアル」やカプコンの「バイオハザード」などがヒットを飛ばします。
プレイステーションのプログラムの開発環境が容易だったのもありますけど、ローンチタイトルも良作を揃え、ライトユーザー向けのソフトをリリースするのが得意なメーカーが意欲作を次々と出していくと徐々に巻き返されます。
何かとライバルのプレイステーションと比べられましたけど、動画再生能力・3D描画能力はPSに比べて劣っていました。
やがて、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどを擁する今のスクウェア・エニックスの参入が決まって、流れが完全に決まってしまいます。
不運だったのはプレイステーションとの本体の価格競争に巻き込まれ、自社でチップを生産できる半導体メーカーのSONYと違い、ただのゲーム機メーカーでしかないセガにはどうしようもありませんでした。
本体は売れば売るほど莫大な赤字を出し続け、戦略次第では充分に戦える名機だったのですが、看板ゲームの『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』のゲームをほぼ出されることもなく、新ハード「ドリームキャスト」を投入することに。

 

 

海外では自社のメガドライブと足を引っ張りあうかたちとなり、売れ行きは悲惨であった。結局世界市場では、セガハードの中で最も売れなかったハードでしたが、長年のライバルだった任天堂の同世代機「NINTENDO64」に限れば日本国内の販売台数で上回っています。
同じ世代機の「3DO・PC-FXが消えていく中で、次のドリームキャストが発売されるまで、任天堂とSONYを相手に三つ巴の戦いを繰り広げた名機です。
日本市場ではセガとして最も売れたハードでもあるんですね。
また、セガール(セガ)とアンソニー(ソニー)の二匹のチンパンジーを利用した比較CMを行ったり、せがた三四郎などの名物キャラクターを生み出すなど、インパクトのあるCMでも有名でした。


ドリームキャスト

セガ・エンタープライゼスが日本で1998年11月27日に家庭用に向けて製造した最後の据え置きゲーム機です。
DC・ドリキャスの略称で呼ばれています。
ソニー・コンピュータエンタテインメントに(SCE)のPlayStationに劣勢を強いられていたセガサターンの次世代機として社運を賭けて開発され、日本国内で第6世代ゲーム機の先陣として発売されました。
外見はセガサターンと比べて重箱のような正方形に近いアスペクト比で小型・軽量となっています。
本体カラーはホワイトのみですが、後に限定仕様でカラーバリエーションが展開。
接続端子は、コントローラポートを4個装備して、コントローラーや周辺機器の同時接続が可能。ポートを分配するマルチタップなどの機器は存在せず、最大接続台数は4台までと。背面にはAC電源端子・映像出力端子・シリアル端子と、本体出荷時にはモデムが装着されているエクステンションポートがあります。
インターネット通信機能が標準で搭載されるという、当時では画期的なハードで、エンターテイメントの未来を先取りするマシンとして誕生した「夢のゲーム機」。本格的なオンラインコミュニケーション機能を持つ、業界初の家庭用ゲーム機だったのです。
インターネット通信用モデムを標準搭載し、ブラウザでウェブサイトを見たり、ゲームやチャットによって人と人とのコミュニケーションを楽しませるなど、ソフトウェア“ドリームパスポート”により、誰もがネットワーク機能を楽しむことができました。
同時にネットワーク機能を生かしたオンラインゲームも多数発売。
当時主流だったCD-ROMより大容量の1GBを誇るGD-ROMを使い、大容量のゲームを提供できました。

GD-ROMはソフトウエア供給媒体としてヤマハと共同開発した光ディスクで、CD-ROMとしての機能と同等形状で1GBの容量を持っています。その他でGD-ROMを再生する機器はアーケードゲーム媒体以外ではほとんど存在せず、事実上ドリームキャスト用ゲームソフト専用規格のディスク。

コントローラには、持ち運びを見据えたモニタ付きメモリーカードビジュアルメモリを組み込め、アイテムを表示したり、キャラの状態を出したりということも。
ビジュアルメモリはそれ単体でも携帯してゲーム機としても遊べるため、外でプレイしている人も多く見ることができました。また、アミューズメント施設のゲームと連動したりという仕組みをしたタイトルも。
アーケード基板「NAOMI」との連動など、ハード単体に収まらない拡張性も話題となりました。
グラフィックチップにPowerVR2を搭載し、3D処理能力に特化した性能を存分に発揮させたのです。『セガサターン』の反省を踏まえて、それまでのハード(PSやN64)とは次元の違う美麗なグラフィックが注目を集めました。

 

 

予想だにしない悪夢

湯川専務(当時)を使った大規模なCM戦略も話題をさらい、広告戦略が功を奏してハードとメーカーの知名度が共に急上昇し、「売りに出せば売れる」という人気を誰もが予想したものです。
当時のセガの人気シリーズだった「バーチャファイター」と「セガラリー」、海外では絶大な人気だったにもかかわらず『セガサターン』では続編を出さなかった「ソニック」の最新作を数か月で発売し、湯川専務の宣伝効果もあってか発売日にはドリームキャストが売り切れるほどでした。
しかし、本体発売前から肝心の供給体制が整わないという事態が生じて、生産とソフトウェアの開発に遅れが生じ始めます。
悪いことにチップの歩留まりも向上しないまま、十分な量を確保できなかったことが致命的となって、出荷台数が予定数を大きく下回り、発売日を当初予定の11月20日から27日に一週間延期し、初回出荷量の大幅減、予約キャンペーンも急遽取りやめといった「売りたくても売りに出せない」というかつてない非常事態となることに。
ローンチタイトルの殆どは発売延期となり、他機種の「スマッシュブラザーズ」「ファイナルファンタジー[」とのキラーソフトの被りもあり、品薄と合わせてスタートダッシュを確保したかった末年始商戦での商機を逃してしまいます。
そうこうしている間に、またもライバルであるSCEが立ちはだかり数か月後の1999年3月に次世代機プレイステーション2(PS2)を発表します。
ドリームキャストを超える美麗なCG処理能力と、驚愕のDVD再生機能を搭載。さらに3000タイトル以上という豊富なラインナップを誇るプレイステーションのソフトと互換機能があるという強烈なインパクトを残すのでした。
一方で諸問題が解消されないまま、1000タイトルを誇ったセガサターンのソフトとの互換性を持たず、ソフトの不足で苦戦していたドリームキャストはこの発表だけで致命的なダメージを被ることに。
もう負けるわけにはいかないセガは、最後のテコ入れとして値段を29800円から19900円に値下げを決行し、少しでも2000年3月発売のPS2に対してアドバンテージを確保しようとしたのですが、PS2の発売から数か月で普及台数を追い抜かれてしまい、命運は尽きてしまうことに。
2001年1月にドリームキャストの製造中止と家庭用ハード事業撤退が決定。以降は、それまでに生産した在庫分の値段を9900円に値下げして販売。
家庭用ゲーム機はソニーや任天堂、マイクロソフトの家庭用ゲーム機向けにソフトを供給することに専念することに転換することに。
セガ最後の家庭用ゲーム機となり、セガ初の家庭用ゲーム機SG-1000の登場からドリームキャストまで、約18年のハード事業が幕を閉じるのです。

 

先取りしすぎた「夢のゲーム機」

悲運を遂げたドリームキャストですが、意外にも当時の格ゲーユーザーの評価は高く、「神機種」とまで呼ばれるほどでした。
当時はアーケード格闘ゲームの完全移植というもの自体に需要が多分にあり、アーケードゲーム業界に導入された互換基板「NAOMI」を有していたので、PS2発売後もしばらくはドリームキャストがその需要を一手に引き受けていたからだと思われます。
目立ったヒットがあまりないと思われがちですけど、セガならではの意欲作は数多くて様々な名作が誕生しており、今なお語り継がれる逸材が多く揃っているのも事実。
ソフト開発のコストの安さなどもあり、新品本体の在庫がほぼ無くなった2002年以降も小規模ソフトメーカーを中心に約100タイトルのソフトが発売されていたのでした。ハード事業撤退表明後も新作ソフトが海外のみでリリースされ続けていたことから、ハードとしてのポテンシャルが高かったことは間違いないでしょう。
ハードメーカーとしてのセガ・エンタープライゼスの有終の美を飾るに相応しい、まさに名機だったと言えるでしょう。

SC-3000(エスシーサンゼン)

本体一体型のキーボードを使用し、簡単なプログラムが組める「ゲームパソコン」。
日本国内では1983年7月15日3]にセガが発売し、海外ではOEM販売されていました。
メーカー希望小売価格は29,800円。
専用のモニタがなくても家庭用のテレビに接続してパソコンとして使用でき、専用のカートリッジを挿せばゲームも楽しむことができたのでした。
また、プリンタやデータレコーダなど豊富な周辺機器(別売)と接続することで、さまざまなシステムアップを図ることができたスグレモノ。
本機はシステムプログラムが別売であるため、単体ではシステムとして使用できない反面、高価だったROMとRAMを本体から切り離すことによって、同年11月発売のMSXと同等の性能で29,800円という当時のゲームパソコンよりも数万円安い低価格を実現。
PC用ディスプレイは不要で家庭用のテレビに接続してパソコンとして利用できるだけでなく、専用ソフトを挿入すればゲームが楽しめるところもセールスポイント。また購入する言語によって、メモリ容量や、仕様を選択できるという利点も。
当時のゲームパソコンは高価なものが多く、29800円という価格はかなり破格だったのです。
本体カラーは3色のバリエーションがあり、キーボードなどに改善を加えたSC-3000Hも発売された。
ちなみにSCはSEGA COMPUTERの略。

 

 

SG-1000

SC-3000をゲームに特化させたマシン。
セガの家庭用ゲーム機第1号。
日本では1983年7月15日にセガが販売し、海外ではOEM販売されました。
同社の「ゲームパソコン」SC-3000からキーボードを切り離し価格を抑えることに成功したゲーム専用機。
任天堂のファミリーコンピュータに対抗すべく開発されたマシンとして知られていて、キーボードを取っ払い、価格をSC-3000のほぼ半額の15000円に抑えているのが凄いところ。

ファミコンの14800円という価格を見据えてのものだと思われました。

よりゲームに特化し、シンプルな回路で構成。
CPUは8ビットで、当時のパソコンMSXと同程度のものを採用。
アーケードで実績のあるセガが家庭用ハードを発売するということもあり、流行に敏感なゲームファンは大いに注目されていました。
1983年7月15日は、任天堂からファミリーコンピュータが発売された日でもあって、この1983年という年から日本におけるゲーム機の発売ラッシュが始まったのでした。
ゲーム機戦争”などと称された販売競争は、SC-3000SG-1000の投入によってより勢いを増していくことに。
ゲームはセガから発売された専用カートリッジの他に、ツクダオリジナルのオセロマルチビジョン用のカートリッジでも遊ぶことができました。
『サファリハンティング』や『フリッキー』、『モナコGP』、『コンゴボンゴ』、『ジッピーレース』などの人気アーケード作品が移植されていたのがSC-3000/SG-1000の大きな魅力でした。
以降、セガは家庭用ゲーム機のハードメーカーとして活躍していくこととなるのでした。

セガ・マークIII

1985年10月に発売された、セガのSG-1000シリーズ(SG-1000II、SC-3000等)の上位互換機。
独自に開発したカスタムチップを搭載することで、従来のマシンと互換性を保ちつつグラフィック機能を大幅に強化。
カードキャッチャを標準装備されていました。

2年前に発売されたファミリーコンピュータ(ファミコン)に、大ヒットとなる「スーパーマリオブラザーズ」がリリースされた直後の発売となった。
1985年10月のマークIIIの登場によって、ファミコンに比肩する性能をもつ家庭用ゲーム機を市場に投入する形となったのです。

マイカードマークVやゴールドカートリッジだけでなく、SC/SGシリーズのソフトでも遊ぶことができたのが特徴。
周辺機器にはFMサウンドユニット、テレビおえかき、テレコンパックなどユニークなものが多かったです。
表示できる色数やスプライトが増加し、当時としてはかなりカラフルで美しい画面を作り出していました。
本体にはロムカートリッジのほか、セガ・マイカードと呼ばれるカード型ソフトの差込口が付いているのが大きな特徴。
スペースハリアー』や『アフターバーナー』、『アウトラン』など、アーケードゲームの移植作を本機では思う存分にプレイできた夢のマシン。
ほかにも『ファンタジーゾーン』、『忍 -SHINOBI-』、『青春スキャンダル』など、人気移植タイトルが多数登場。
オリジナルタイトルも粒ぞろいで、『アレックスキッドのミラクルワールド』や『ファンタジーゾーンII オパオパの涙』、『北斗の拳』といったタイトルが有名。
現在も続く人気シリーズ『ファンタシースター』の初代作品もセガ・マークIIIで誕生。

 

 

ゲームの歴史に名を残す8ビットゲーム機の一つ。
また、初めてセガが任天堂と激しく争ったハードであり、その戦いは「第1次ゲーム機ハード戦争」として知られています。
ファミコンに比べ発色数において上回り、ライバルと比べ性能は低いが癖のない音源、画面表示では劣る程度の差で性能としてはほぼ互角と言っても過言ではありません。
1987年10月にPCエンジンが発売されるまでマークIIIがほぼ唯一のファミコン対抗機となったのです。

 

 

セガ・マスターシステム(Sega MasterSystem)

セガマークVの海外版。
日本での型式番号はMK-2000
北米では1986年に、ヨーロッパでは1987年に発売されました。
逆輸入という形で日本でも1987年に米国版をベースにFM音源や連射機能の内蔵などのマイナーチェンジを行い発売され、日本版マスターシステムはFM音源と連射機能を標準搭載した初の家庭用ゲーム機となりました。

FM音源は当時アーケードゲームやパソコンなどで主流になっており、セガマークV向けにも外付けFM音源ユニットが発売されました。

サードパーティーが日本では1社(サリオ)、アメリカでは2社(アクティビジョン、パーカー・ブラザーズ)しか参入せずという状態で、当時はファミコン(海外版はNES)全盛期で、日本では次世代機であるPCエンジン(1987年10月30日発売)が登場した時期でもあったために日本とアメリカでは苦戦を強いられた悲劇のハード。
結局、セガは翌1988年10月に次世代機メガドライブを投入しマスターシステムの展開を終了しました。
これ以降も、セガは運命のタイミングに苦しめられることになります・・・。

ラストエトワール